姜 竣(KANG Jun)
マンガ学部 マンガ学科 カートゥーンコース 教授
定住と遊動の交わりから見えてくる営み
人類学、民俗学と聞けば、何やら難しそうだと思う人もいるかもしれない。しかし、姜竣先生は「ストリート人類学」という新たな研究プロジェクトを通して、これまでとは違った視点で、人々の営みや、地方と都市の在り方、その本質を解き明かそうと考えている。
人類学は共同体の研究だ。農耕社会の共同体は家々が集まって村をなすが、そこには定住民と、共同体の外からやってくる遊動民という二つの存在がある。例えば、徳島県に古くから伝わる「阿波木偶箱回し(あわでこはこまわし)」は、正月に、能などで舞われる三番叟(さんばそう)と恵比寿の人形を持った芸人が、家々を門付けして回り、1年の穢れを落として福を授けるという伝統儀礼だが、その芸能の担い手の多くは地域の外から訪ねてくる遊動民なのだという。
江戸時代の身分制度で言えば、彼らはもしかすると差別民と被差別民の間柄だったかもしれないが、柔軟な思考と姿勢で、外部から特別な力を持った人たちを受け入れ、互いに交わり、そして日々の暮らしを賦活化していく…。「ストリート人類学を考える上で、これほど興味深いテーマはありません」と姜先生は笑みをこぼす。
負けないでい続けることの意味
定住民と遊動民の関係は、歓待と敵対、すなわちhospitalityとhostilityの関係に置き換えることができる。かつて日本各地では旧暦11月23日の夜、家々を訪れたお客さんに小豆粥を振る舞う大師講という行事がおこなわれていたが、江戸時代末、長野県のある地域では旅人の腹が裂けるまで粥を食わせ続けた…という伝承が残されているという。「歓待と敵対の境界は曖昧なもの。決して切り離して考えてはいけません」。
近年、公共施設に設置されたベンチやゴミ箱は、機能的で美しいものが増えた一方で、他所から来た旅行者、あるいは公園や路上で生活する人たちがベンチに長く居座ったり、ゴミ箱に捨てられたマンガや週刊誌を拾ったりできないように設計されていることが多い。「意地悪ベンチ、意地悪ゴミ箱と呼んでいますが、一見、ホスピタリティに溢れている私たちのアートやデザインが人々をいかに排除する可能性を秘めているか、改めて考えてみてほしいですね」。
ハーマン・メルヴィルの短編小説「バートルビー」に登場する主人公は法律事務所に雇われた無口な青年だが、できる、できないではなく、「~しないほうがいい」という表現で一切の仕事を拒否する。姜先生は、そこに人間の潜在力の本質が見出せるのだという。つまり、可能/不可能、勝ち/負けのいずれではなく、「負けないでい続ける」という人生の要諦が学べる。実は、世の中を支えているのは、そういう生き方だ。
「人間のポテンシャルは有用性や合理性だけでははかり知れないということ」。現代社会は勝ち組、負け組に二極化される傾向にある。「勝ち負けの対立構造で捉えるのではなく、一人ひとりが持つ潜在能力に着目し、磨き高めることが求められています」と、私たちが心軽く自分らしく生きていくためのヒントを提言する。
地域の育みの中から生きるヒントを得る
社会実践力育成プログラム(国内ショートプログラム)では、「ローカルを歩く・見る・聞く-阿波人形伝統を育んだ徳島県の歴史文化-」をテーマに、20数人の学生と一緒に徳島県を訪ね、今なお阿波木偶箱回しを大切に継承する人たちと交流し、実際に三番叟や恵比寿の人形に触れ、自ら操作してみるなど貴重な経験を通して、江戸時代から連綿と続く伝統文化へ思いを馳せる。
木偶箱回しだけではない。「テーマは地域」と姜先生。本プログラムでは、四国八十八ヶ所巡り、いわゆるお遍路の一番札所に当たる徳島県鳴門市の霊山寺を訪ねて参拝することもある。都会で行き場を失った人でも、菅笠と白衣を身にまとえば誰もが同じ巡礼者で、そこには何の差別も偏見も存在しない。「その地域で育まれてきた定住と遊動(移動)、歓待と敵対の歴史・文化について学んでほしいですね」。
ますます多様化・複雑化する現代社会において、姜先生が切り拓く新たな人類学の視点がこれから先、きっと私たちが歩んでいく人生の標(しるべ)になってくれるに違いない。